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ハンセン溶解度パラメータ(HSP):

雑記帳

片々草はじめに

悲しき酒(片々草抜粋)

続・片々草(抜粋II)

 

 

 

 

 

Last Update

02-Jan-2013

「つれずれなるままに、ひぐらし硯に向かひて、心にうつりゆくよ
しなしごとを書きつづれば」・・・というのは、兼好法師の徒然草。
     「筆とれば、もの書かれ(自然に書けてくる)」といった兼好さんの
向こうをはるつもりはさらさらないが、“心にうつりゆくよなしごと”
を折々に書きつづってみたいと思う。
      近頃思う事のカケラ「片々」・・・を集め、題して「片々草」。
 兼好法師ならぬ「原稿奉仕」と言うところか。
                      (土 筆 生)
(68・S・43・7)

片  々  草 (抜 粋)  2012.8.16改訂

    近頃思うことのカケラ・・・片々をまとめてのエッセイ集。
    題して「片々草」———ご用とお急ぎでない方はご覧下さい。
                              土 筆 生
         
*        *        * 

           悲 し き 酒

 酒は、百薬の長という。
 本当に百薬の長として飲む酒があるんだろうか。そんなに酒は甘いもんじゃおまへんでえーと思うが如何?
              *
 時には酒を殺し、また時にはおのれを殺して飲む酒がある。ということを知った時、初めて大人になったというべきか。
 人 酒を飲み、酒 人を飲み、酒 酒を飲むーーーという。そして古川柳に曰く 
   “むなぐらのとらへどこなき ふつかよひ”
              *
 六百年の昔、兼好法師という人、あの人も飲み助だったに違いない。
 曰く———「すずろに飲ませつれば、うるはしき人も、忽ちに狂人となりてをこがましく、息災なる人も、前後も知らず倒れふす」。「明くる日まで頭いたく、もの食はずに酔ひ臥し。生を隔てたるやふにして、昨日のことを覚へず」。———「百薬の長とはいへど、万の病は酒よりこそ起れ」。「憂ひ忘れるといへど、酔ひたる人ぞ、過ぎにし憂さをも思ひ出て泣くめる」。
 また曰くーーー「月の夜、雪の朝、花の本にても、心のどかに物語して盃出したる、よろずの興を添ふる業なり」。(徒然草・第百七十五段)
              *
 飲んべでなけりゃこんなこと判る筈ないもんな。それにしても、酒と言うものは昔も今も変わらんもんですなあ。
              *
 心親しい友とのれん酒で憂さをはらしつゝわめき唄う歌———これぞサラリーマンの本性か。醒めてかみしめる悲哀もまたサラリーマンのしがない本性か。
              *
 ある人は斗酒なお辞せず、またある人は一本の徳利で沈む。いずれが幸せか?。———どちらもお気の毒と思うが、如何?。
              *
 清少納言流に云えば「酒は秋」古人は人肌の恋しくなる秋、といった。そして酒の燗の妙諦もまた人肌という。
 “いざ盃を干せ ”と心おきなき友と盃を傾け合いながら語り明かす夜長———人生はこの夜のためにあったような気がする。
              *
 クラブで飲む酒。“ビール一杯幾らだな?”———ソロバンが頭の中で踊っている。ホステスは “洋服を着た財布が来た ”としか思わんそうな。なーにこっちだって “ブラジャー着けた大根 ”としか思っとらん。———ホントかな?。
 クラブにプラスアルファーのメリットを期待して行くのがバカなのさ。だから俺は屋台が好きーーー。
              *
 酔ってわめき唄う歌の中に軍歌が多い。
 ♫ “どこまで続くぬかるみぞーーー”
 ♫ “友を背にして道なき道をーーー“
 ♫ “ぐっとにらんだ敵空に 星がまたたくーーー”
 何となくもの哀しく心に響き、時の流れを超えて男の心情をそそる。
              *
 “姿の残った城よりも、崩れかかった城趾の石垣にこよなき愛着を感じると誰かが言っていた。
 勝利の美酒も確かにうまい。しかし敗れた酒も、またいゝじゃないか。
 “人生万事塞翁が馬“よ“
               *
 女子社員を交えての会合には、出来れば彼女等の傍らに座ることにしている。何らかのメリットがあるかもしれないから。尤も芥川龍之介流にいえばーーー。
 「ダガコノ真理ハ、残念ナガラ、僕ダケノモノデハナイ」。
               *
 今日は飲んでるんだからこれくらいのことはーーーという気持ち判らんでもない。“ベンセイシュクシュク ヨル カンバンヲ カエル」人がいる。やめようぜ、あんまり後味のいいもんじゃないぜ。
                *
 徳利を傾ける。おや空っぽ、それじゃこれはーーー隣の徳利を振ってみる。同席した酒聖曰く「徳利は振るものじゃない。そんなことをしちゃあ酒の味が落ちる。こうやって(静かにすっと持ち上げ)中味が有るか、ないか、判らんようじゃ飲み手としては下。少なくとも盃三杯分の酒が入っていたら確信を持って傾けられるようにならんけりゃいかん。酒と言うものはそれくらい静かに心を傾けて飲むものじゃ」。「参りました」。
                *
 黒板塀に、見越しの松。所詮縁なき衆生ではあるが、しみじみ味わってみたいなーーーとも思うな。
                 :
 駅の周辺で見かける小間物屋。同情はしないが武士の情けはある。
 “おい、大丈夫かい”
                *
 酔いざめの帰り路、満天の星空であれ、雨の夜道であれ、心が空っぽになって帰りたい。そして夜空にちょっとひと言挨拶したい。
 “今日も一日終わったね。おやすみーーー。

          実  験

 充分餌を与え食べたいだけ食べさせ、もう満腹して食べなくなったニワトリの籠の中へ、空腹なニワトリを二〜三羽入れると、そのニワトリたちが残ってる餌を猛烈な勢いで食べ始める。すると今まで満足してそっぽを向いていたニワトリたちが、あわててまた餌をつつき始めるーーー。
               *
 ところが満腹したニワトリが三羽で、そこに空腹なニワトリ一羽を入れると、それがいくら餌をつついても満腹の三羽はそっぽをむいている。という実験結果がある。
               *
 “隣のジヨーも持っている”という言葉がある。アメリカのセールスマンの合い言葉で、“お隣のジヨーさんのお宅でもーーー”というこの殺し文句に世のオク方さまは弱いのだそうである。
 何か先のニワトの実験を思い出させる話ではないか。

          女房・亭主・夫婦

 最近の子供は洗濯板を知らない。タライは勿論ハタキ・カマド・火鉢・炭など見たこともない者がほとんどである。
 生まれた時から洗濯は洗濯機で、掃除は電気掃除機で暖房は空調でーーーという生活の中で育って来たのだから無理刈らぬ話。
               *
 「おじいちゃんが子供の頃はネ、ご飯を炊くのにナタで薪を割ってネ、初めチョロチョロ中パッパ、じわじわどきに火をひいて,赤子泣くとも蓋とるなーーー」なんて話をしてやると、面白い物語ででもあるように目を輝かして聞き入る。
               :
 昔の女性は,朝、寝顔を亭主に見られるのは恥ずかしいことだ、と教えられて嫁いだものだそうな。もっとも朝食の準備をするのにかまどに火吹竹をつっこんで頬をふくらませてーーーという作業から始まるのだから先に起きるのは当たり前、それこそ朝飯前のことであったろう。
              *
 今はスイッチひとつで好きな時間にひとりでにご飯が炊け、栓をひねればガスレンジは自動点火———洗濯機が回っている間に、掃除は掃除機でという毎日。
 昔、支那のある偉い人がオリンピックの競技を見て、あの選手は必死の練習をして、そして縮めた何秒かの時間を何に使うのだろう?と言ったという笑い話がある。世の主婦族はめざましくおそらくは戦後一番発達した家庭電化の合理化の中で、昔の主婦と比較して浮いた時間を何に使っているのだろうか。
              *
 “小人閑居して不善をなす“といゝ。”“よく啼く雌鳥は卵をうまない”ともいう。ある雑誌にこんな話が載っていた。「亭主が、恋女房で美人の奥さんにくびったけ。夕方はX時までに帰ります、と約束した。彼氏は時間近くなるとソワソワして落ち着かなくなる。そんな男だから会社でもあまり重んじられない。限りある能力を内に使い果たしてしまうのだから、外に使う部分は勢い減ってしまうのは当然———」。
               *
 と、まあこゝまではよくある話だ、がその奥さん亭主が勤め先で捗々しく行かないのを気にやんで “どうしたらうちの亭主の能力を発揮させることが出来るだろうか?”と上役のところに相談に行った、というのである。ことこゝに至って亭主の株は決定的に下落、まずはそれまでになってしまったという。
               *
 “男は女に惚れては行けない、惚れさせろ”、と誰かが言っていた。これは決して女に対する冒涜ではない、その中にこそ女の真の
幸せがあるのではないだろうか。
               *
 男の権威も落ちるところまで落ちて、最近は便器まで女性用を借用するようになってしまった、と嘆いてる人があった。
                  :
 “亭主にお小遣いをアゲル”、という奥さんがある。世の亭主方よ、そんなことでいゝんだろうか。家ではメザシを食っても男たる者、やせ我慢でも何でも外では堂々と振る舞うべきであり、また振る舞わせるべきではないのだろうか。
            * 

         テ ス ト

 小二の女の子。
 「今日ネ、学校で国語のテストがあったの。私の隣の席のXXくんたらね、“小鳥”という字に“チイ・トリ”ってかなつけてんの“。母親「それで、あなた教えてやったんでしょう」。「ううん、テストだもん、教えちゃいけないと思ったのでヒントだけ言ってやったの」「なんて言ったの」「XXくんあなたネ、“小人”って書いて、“チイ・ヒト”って読むってーーー“、そしたら”あゝ、そうかって判ったらしいわよ“」

         白  黒

 砂浜に波が打ち寄せる。
 時に大きくときに小さく、寄せては返し返しては寄せる。そして知らないうちに砂浜が狭くなっているーーー。
 それが同じことの繰り返しのうちに、今度は引き潮になっていて、気がついたら砂浜が広くなっている。どの波までが上げ潮でどの波からが引き潮なのかは判らない。
 しかし、確実に潮は満ち、そして引いていくーーー。
             *
 夜と昼の境はどこにある?。
 夕方のどこまでが昼で、どこからが夜なのか、或は昼と夕方、夕方と昼———の境はどこにある?。境い目はないのにしかし夜は確実にやってくる。
              *
 そこへいくと昔の人は情緒があった。“たそがれ”というのは  ”誰ぞ彼は”(あそこに佇んでいるのは誰だろう?)という薄ぼんやりした情景から生まれた言葉だと云う。
              *
 はっきりした昼と夜の間に、ぼんやりした“たそがれ”があるように、我々の日常生活の中にも判然としない、割り切れないものがあってもいゝのではなかろうか。
              *
 それなのに我々は何でもかでも白でなければ黒、善でなければ悪、と割り切ってせっかちに決着を付けたがり過ぎるのではないうか。
 勿論、進歩の為には完璧を求める精神も大切なことではある。しかし、我々人間の生活の中では,三分の不合理をつく前に、とりあえず七分の合理を追求する努力の方がより大事なのではあるまいか。


            生 き る

 飲んでいると時計の針が早く回るのかなあ。気がついたらアシタになっていたということがある。酔った勢いで改札口の駅員と交渉。終電が出てしまった後じゃどう交渉しても始まらない。まゝよーーー諦めて駅前広場へ出る。寒い。むしょうに腹が空いて来る。屋台の立ち喰いうどんに頭を突っ込む。うまいーーー。
               *
 屋台の裏で奥さんが七輪の火をおこしている。かたわらに、そう、年の頃なら三〜四才の女の子。綿入れのチャンチャンコを着て、舗道の敷石の筋の上を、両手を拡げ飛行機のまねをして走り回りながら、意外と明るいカタコトで独り言。“オキャクサマニハ、ハイ トンガラシッテイウノネ。”“”アリガトウゴザイマスモネ“———木枯らしの吹く真夜中の話。
               *
 夫婦で夜中の仕事、幼児ひとりを家において出る訳にもいかないのだろう。そしてこの子は生まれたときから “生活”とはこんなもんだと思い込んでいるのだろう。“生きる”ということは大変なこと、こんな生活もあるんだなあ。

 

           原 爆 忌

 また八月がやってきた。もうあれから何十年も経つというのに、毎年八月、入道雲の季節になると、あの敗戦の年のことが思い出されて来る。
 当時長崎に住んでいた自分にとっては、これらの日々が自分の青春時代を凝縮し、そしてピリオドを打った日々として、正月やお盆とは比較にならない重要な意味を持った月であり日々なのである。
               *
 昭和二〇年(1945年)八月。長崎。
 毎日、日本中の主要都市のどこかがB29の爆撃を受け、もう誰の目にも日本の敗戦は明らかだったのだろうに、中学三年生で十四歳の少年は、「神州不滅」!頑に日本の勝利を信じて、戦地で命がけで戦っている兵隊さんに代わって学徒動員、一直十二時間の二交代勤務の旋盤工として工場通い。
               *
 なんでも「④艇」という特攻用のモーターボートのシャフトに使用されるらしい、という噂だったが、材料をネジ切り旋盤で削り、マイクロメーターで許容誤差一ミリの百分の五までという厳しい仕事だった。
 何もかも㊙で、何も分からないまゝ、とにかくお国のために云われるまゝにしゃにむに働いた。夜中におにぎり二個と沢庵二枚を配ってくれるのを唯一の楽しみにーーー。
               *
 そして運命の日---。その長崎に原子爆弾が落とされたのは八月九日、午前十一時二分だった。
 工場で徹夜勤務の明け方、旋盤で右手の薬指をつぶし三針縫って、公傷十日の通院日。朝から病院に行ったが、空襲警報発令で診療中止。折角電車に乗って来たのに、と不承不承家に帰った途端だった。
 突然目を閉じていても飛び込んで来るイナズマのような光が閃いた。一瞬家の中で体ごと吹き飛ばされ、しばらくは何が何だか判らなかったが、我に返って驚いた。畳はめくれてる。タンスはずれてる。天井板がずり下がってる、大きな石が家の中に転がってる。尖ったガラスがふすまに無数に突き刺さってる。屋根瓦が飛んでる。何とこれらのことが瞬時に起ったのに、一緒にいた弟とともに裸同然で怪我もしなかったのは“奇跡”というべきか。そして後で判ったことだが、外出していた母と妹、やはり兵器工場に動員されていた姉も無事。
 しかし、仕事で爆心地の近くの会社に行っていた父は、まるで我々皆の身代わりになったかのように、その時すでに昇天していたのだった。
               *
 その日は、中心地付近の様子がわからないまゝ、夜になっても帰ってこない父を、どこかに避難していていずれひょっこり帰って来るものと疑いもせず、裏山の防空壕に避難するたびに父宛のメモを残してーーー。
               *
 日が経つにつれて、“空中魚雷”だ。”新型爆弾“だといろんな噂が飛び交い、日とともに元気そうだったあの人この人がばたばたと死んで行く。朝起きて髪の毛が抜けるとダメらしい。歯茎から血がでたらダメらしい。とおびえる毎日だった。回りの焼け野が原を見る度に、どうしてもこれが一発の爆弾の被害とは信じられなくてーーー。
               *
 そして八月十五日。
 ラジオが朝から何度も “正午に重大発表があるから必ず聞くように”と繰り返し、ガアガアという雑音でよく聞き取れなかったが、とにかくその放送で戦争は終わり「敗戦」。
 ———「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ビ難キヲ忍ビーーー」と言うけれど、この放送がもう六日早ければ父も無駄に死ななくてもよかったのに。
               *
 あの日、蒸し暑く焼けただれた街の空に、純白に盛り上がった入道雲の下で、七十年間草も生えぬと言われた長崎に、カワラトンボが群れをなして低く飛び交っていたのが、今でも鮮やかに思い出される。

    原爆忌 あの日あのとき 生きていま  土 筆

                  あの頃のこと(続・原爆忌) 

 前回の「原爆忌」に続き、今暫く「あの頃のこと」を書き留めておきたい。
               * 
 八月九日、原爆の日。
 あの日朝、診療中止で不承ぶしょうに戻って来た三菱病院は、家から市電で四〜五十分かゝる浦上にあった。原爆は、この浦上の上空五百メートルのところで炸裂した。
 午前十一時○二分・・・ピカッと閃光一閃!。世の中が真っ暗になった。その瞬間すべてのことが起ったのだった。
               *
 それから毎日、どこからか帰って来る筈の父を待ちながらも、日に日に明らかになっていく想像以上の惨禍に“もしや?”が “やはりーーー”に変わり、四〜五日たったところで、これじゃあもう絶望 “死んでいるのならせめて骨だけでもーーー”と、父の会社を知っている人に案内を頼んで現地に出かけた。
               *
 もう延焼の火の手は収まっていたが、長崎駅のあたりでぱんぱんに膨らんで転がっている馬の屍体に驚いたのが手始めで、爆心地に向かって行くほどに、片付けきれない屍体が累々。
 子供を背負ったまゝの人、水がなくなった防火用水に半身を突っ込んでいる人、川に向かって水を求めながら途中で果てた人達の折り重なった無数の死体。それらの屍体につまずきそうになりながら、それでもそれらしいと思われるものは顔をのぞいてみるが、どれも焼けただれていて表情が判るはずもない、
               *
 “このあたりに会社があった筈”、というあたりはもう爆心地の真っただ中。あった筈の屍体も業火で火葬になってしまったのだろう、もうそこらあたりは瓦礫だけを残す、見渡す限りの焼け野が原。その中に、敷石の形から “多分こゝらあたりが会社の事務所付近・・・?”と言われたところに、僅かに残っていた幾つかの骨のかたまり、誰のものか確証はないまゝ、せめてこれだけでもと拾っているうちに黒コゲの腕時計が出てきた。その文字盤にかすかに読める「Mido」という文字。”ああ、これはおやじがはめていた腕時計だ“と、これだけが四十六年間この世に生きたおやじが最期に我々に遺した唯一の遺品となってーーー。
              *
 あの時、十四歳の幼い経験でどうしようもない人の「運命」ということを心の奥深く刻み込まれた。
 「人は生まれながらにして、すべて決まった星の下で生かされているのではないか?」。
 「閃光一閃!」。その時、一時間前に自分がいた病院は、あの瞬間瓦礫になってしまったのだった。あの時自分が生き残ったのは、後からいろんなことが分かってみると、ゾッとする程の僥倖の積み重ねによるものだった。何もそれらのことを自分で選んだのではない、いろんな運命の組み合わせが俺をそうしただけのことであって、強いて云えば、父が家族みんなの運命を一身に背負って身代わりになった、としか言いようがない。
              *
 あの時、学徒動員で何カ所かに分かれて動員されていた中学校の仲間達も、非番で家にいたために亡くなった友、工場に来ていた為に自分は助かったが家族が全滅した友、その時は何ともなかったのに、十日・ひと月・三月経ってからぼろぼろと死んで行った友・友・友・・・。同級生二百九十七名のそれぞれにそれぞれ与えられた「運命」の明暗があった。
              *
 あれから数十年余、あの紅顔の少年達も、それぞれの「運命」のまゝに生き残ってここまで来れた感謝の気持ちを故郷に持ち帰り、亡き友の「慰霊祭兼同窓会」をやろうということになった。 
 そこに全国から馳せ参じた友百四十余名。その時 代表が読み上げた弔辞の一節。
     
   めくるめく 日の果てにして 偲ぶ草
          たまゆら遠く 亡くせし友よ

          続・あの頃のこと

 前回に引き続き「あの頃のこと」を書き留めておきたい。

 八月十五日、正午。
 “耐ヘ難キヲ耐ヘ、忍ビガタキ忍ビーーー”という「終戦の詔勅」放送のすぐあと、要塞司令部から憲兵の乗ったトラックが回って来た。「今の放送は、敵の謀略によるデマ放送であるからして信用してはいかん。もし、万一本土が降伏したとしても、九州だけは独立して最後まで戦うのだから、その覚悟でいるように」ーーーと勇ましいことだったが、そのうちうやむやになって、結局そのまゝ敗戦。長い長い「戦争」が終わった。日中戦争から数えれば八年。満州事変からだと十四年---考えてみれば生まれた時からずっと戦争である。
                *
 生まれたばかりで満州事変の記憶は全くないが、日中戦争の時はもう小学生だったし、父が出征したこともあり「慰問袋」を作って送ったりたり、家の前で「千人針」をお願いしたりした。
  (千人針---タオルくらいの大きさの布に、道行く女性千人にお
   願いし、赤い糸でひと針づつ縫って貰った糸玉を千個作り、出
   征兵士に送り武運を祈った)。
                *
 毎日毎日 “わが大君に召されたる・・・讃えて送る一億のーーー”と万歳万歳で出征兵士を送り、“海ゆかば 水くかばね・・・大君のへにこそ死なめーーー”と遺骨を迎える日々だったが、まだこの戦争の頃は泥沼の様相とはいえ勝ち戦でもあり、世の中全体がどこかおっとりしていた。
 太平洋戦争に入ってからは、最初の半年くらいは元気があったが、国力が底をついていたこともあり、戦況が日に日に悪化して行く中で最後の三年ーー中学校時代は、もう学生と言える生活ではなかった。
 中学校に入って最初に習ったのが「挙手」の敬礼。学業そこのけで毎日三八銃をかついでの軍事訓練。すべての生活が軍事直結で兵隊さんと同じに道で上級生にあったら挙手の敬礼。通学にはゲートルを巻いて仲間と列を作り、兵隊さんに会ったら「歩調とれ!カシラ右!」と言った調子。
               *
 英語は敵性語だからと禁止。同級生に“深堀譲治”という名前の友達がいた。配属将校(軍事教練を指導するために各学校にプロの将校が配属されていた)が教練の点呼のとき 「深堀・・・お前の名前 “ジョージ”というのは英語の名前をもじっとる。怪しからん!一歩前!」。 
 あまりの無意味さに誰かが笑ったら「お前らはたるんどる!。全体責任^^その場に正座!」と^編上靴にゲートルを巻いたまま座らされるといった毎日だった。 
               *
 空襲に備えて頭巾・防火用水・火たたきなどを準備させられたあたりまではまだまともだったが、敵が上陸して来た時のためにと各戸ごとに竹槍を備え付け、その訓練をさせられるようになったあたりからおかしくなってきた。
 ある日学校で山ほどの竹を前に “全員でこれを巾四〜五センチ長さ四〜五十センチの短冊形にし,その竹の両端を尖らせろという。
最初は意味が分からなかったが “敵の落下傘部隊がいつやってくるか判らん。落下傘部隊は広い原っぱや砂浜に降下して来る。もし降下してきたら尻に刺さって怪我するように、これを適当な間隔で地面に刺しておくのだという。ばかばかしくて笑い話にもならないようなことが、本当に真剣に真面目に指導されたのだった。
               *
 こうした狂気の毎日も、八月十五日「敗戦」というかたちでピリオドをうち、三十日にはアメリカのマッカーサーが厚木の飛行場に降り立ち、長崎には九月二十三日、海兵隊が港から上陸。まずは迷彩服に自動小銃で武装した兵隊が街中を行進してデモンストレーション。
                * 
 そして我が青春を二つに切り裂いて「戦後」が始まった。   
 あれから数十年も経つと言うのに、あの頃歌った「学徒動員の歌」を無意識にふと口ずさんでいてはっとすることがある。

     花もつぼみの 若桜
      五尺の命 ひっさげて
       國の大事に 殉ずるは
        われら学徒の 面目ぞ
         ああ紅の 血は燃ゆる 
              *

         続々 あの頃のこと

 敗戦とともに「鬼畜米英」と教え込まれてきた敵の軍隊が乗り込んで来た。まず驚いたのがその装備の素晴らしさ。まるで私物のように自由に乗り回すジープの軽快さ。タイヤが十本もある装甲車のようなトラック。ハンディでスマートな自動小銃。
 占領政策の常道だろうが、進駐軍がまず努めたことは、我われ民間人と親しくなることだった。全員が赤い表紙の「日米会話手帳」というのを持っていて、「コニチハ、オハヨゴゼマス」と、彼等の方から気やすく近寄って来た。
 兵隊が街に出る時の服装にも目を見張った。ズボンはもちろん、シャツもクリーニングの仕立て上がりで、ピシッと折り目がついている。それが将校だけではなく,下級兵まで皆同じなのも驚きだった。
               *
 シンガポールを占領した我が兵が、慌てて逃げた敵が残して行った初めて見るチーズを石鹼と間違え。風呂で使って「イギリスの石鹼は泡が出ない」と不思議がった、という笑い話を聞いたことがあるが、我々の手にもたまに入った進駐軍の日用品の素晴らしさに目を見張った。
 ハーシーのチョコレート、ラックスという石鹼の泡立ち、しゃれたデザインをセロハンで包装した二十本入りのたばこの種類の豊富さ、香りのよさ。風が吹いても消えないジッポーというライターーーーどれもどれも戦争をする兵士の日用品とは思えない贅沢さだっった。
 こんな國と戦って来たのかと驚くばかりだった。   

        
            赤 だ し

 人に写真を何となく見せた後で「今の写真の中に犬が “いたか”」と聞くと、半分くらいの人は “いた”といゝ、半分くらいの人は “いなかった”と答えるという。ところが同じ写真でも「犬が何匹
いたか」と聞くと「いなかった」と答える人はいないそうだ。
                *
 新橋の釜飯で有名なS店へいくと,仲居さんが献立表を見た客から注文を受けたあと “赤だしもお持ちしましょうね”という、すると大抵の人が注文しなかったのに “そうね”と答える羽目になるが、不思議と押し付けられたと言う気はしない。
 これが“赤だしはどうしましょうか?”と聞かれたら、少なくとも半分くらいの人は “いやいゝよ”と答えるのではなかろうか。
                *
 出張の車中、車内販売のワゴンを押したお姉さんが脇を通った。
 のどが乾いていたのでビールを注文したら、そのお姉さんがビールを渡しながら“おつまみは何にしましょう?”と言った。たかがのどが乾いてお茶代わりの缶ビール一本である、つまみなんて考えていなかったのだけど、“おつまみは?”———と聞かれては是非もない、“それじゃあ”とピーナッツを買う羽目になってしまった。これが“おつまみはどうしますか?”と尋ねられたら明らかに“いや いゝよ”という雰囲気だったのになあーーー。
                *
 さゝいなことのようではあるが,人の心理を考えた言葉の使い方、———ことは商売だけのことではない。人を動かす「話し方」というものに、我々はもっと注意を払ってもいゝのではあるまいか。

 

          ありのすさび

 「姉ぎみの 嫁ぎたまいて/いかのぼり ただひるがえる/あるときは ありのすさびに あらがいしーーー」。
 誰の詩だったか、そしてその後がどう続いたのか覚えていないが、中学生の頃読んだ詩。
                *
 “あるときは ありのすさびに あらがいしーーー“という韻を踏んだ言葉の調子にもよるのだろうが、”いかのぼり ただひるがえる“という表現で姉さんがお嫁にいってしまった後の弟の心の寂寥感が伝わってきて妙に忘れられない。
                *
 “やぶる子の なくて淋しき 障子かな”という句がある。ひっそりとした、夫婦だけのきちんと整った、それでいてどこか物足りない家の中の雰囲気が伝わってくる。
                *
 人間ぜいたくなもので、子供のない家庭では、子供のいるやゝこしさをうらやましく思い、子供のいる家庭では、逆に小さな子に手を焼いて、あゝ子供のいないあのご夫婦がうらやましい、とため息をついたりする。青空ぽつんと浮かんでいる凧をみて、姉さんと喧嘩したことを後悔してみたりーーー。
 “ありのすさびーー“ということ、人間ってむつかしいね。

 

          また 悲しき酒

  “もうひとつ 頭が欲しい 二日酔ひ”

 「飲むのもいゝけど、そんなに酔っぱらう前に何故やめないのか?。」飲まない人からよく言われるセリフである。

 “それほどに うまきかと/人の問ひたらば /何と答えむ この酒の味“(牧水)
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 どうも飲み助と云われる人の特色は、共通してテレ屋であるように思われる。人間が人間であるが故の、何ともい云えない弱さ淋しさーーーある種のせん細な神経の持ち主に、飲み助と言われる人が多いように思うがーーーこれもやはり「酒のみの自己弁護」であろうか。
 心理学的にみると「犯罪者は人並み以上に気が弱い」ものだそうで、だから犯罪を犯すのだ、という論理と一脈通ずるのではないか。
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 宴席で “いや、あたしは不調法でしてーーー”と丁重に断ってジュースか何かでサシミをつゝいてる人がいる。
 取りつくシマがないまゝに自分だけが飲んで、そのうちトーゼンとなってくると、何か塀越しに我が家を覗かれているような感じになって来るのは俺だけだろうか。
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 酒を飲むと急にゴウカイそうになる人がいる。酒を飲む、と言うことはそういう言動をすることがいゝことなんだといった振る舞い。普段おとなしい人に意外と多い。こういう人がそのうちだんだんと青い顔になって目が座ってくる。このテアイが大抵「酒ニ酔ッテ公衆ニ迷惑ヲ掛ケル行為ノ防止等ニ関スル法律」という、座った目では読めないような法律に引っかゝるようなことをしでかすことになる。気をつけようぜ。
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 どういう訳か、酒を飲んで払う金は、飲んだのだからーーー当然のことで、そんなに惜しい気はしない。ところが デパートでネクタイか何かを前にして、さて買おうかどうしようかとなると、何か財布を出すのが惜しいような気がするのは俺だけだろうか?。
 まあ、ヨカ ヨカ“下戸の建てたる蔵はなし”って云うジャン。
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 赤提灯で飲んでいると、そのうち隣で飲んでいる人が仲間みたいに思えてくる。学生の頃新宿の屋台で飲んでいて,隣でショーチューを飲んでる大工さんと意気投合、 “誰が何と言ったってカンナを引いて、おれ程一気に薄くて長いカンナクズを出せる奴はいないはずーーー”という自慢話を聞いたときの感激が今でも新鮮な記憶として残っている。まだ電気カンナなんてなかった昔の話である。
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 飲むと人なつっこくなるのか、誰かのうちを尋ねたくなる。あの人この人の顔が浮かんで来る。まあ言ってみればお互い様。右にふらり左にふらりの千鳥足でも、日頃嫌いな人の門を叩くものはいない。それもよし、これもよしおおらかにいこうぜ。とは言っても「客半日の閑を得れば、主半日の閑を失う」ということも忘れちゃいかんな。
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 いい気持ちになって来たところで、うろ覚えの酒に関する川柳を少々。
    本当に 飲めないよふな 一杯目
    独り者 一時間ほど 酔って醒め
    やけ酒は 湯のみをおいて 息を吹き
    禁酒して ひとり淋しく かしこまり
    催促を すれば当分 飲みに来ず
    飲んで欲し 止めても欲しい 酒をつぎ
    般若湯 時間が経てば 俗におち
    遺言に 不満があって 通夜に酔ひ
    酔い醒めの 土瓶のふたは 鼻におち
    その夜まで 飲んだ果報を 惜しまれる
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 締めくくりに「星の王子様」の中から一節。
               (サン・テクジュベリ・内藤濯釈)
 
 ——— 「飲み助は、空のビンとお酒のいっぱいったビンをずらりと並べて黙りこくっています。王子様はそれを見て云ゝました。
    “きみ、そこで何をしてるの”
    “お酒を飲んでいるよ”
    “何故そんなにお酒を飲むの”
    “忘れたいからさ”
    “忘れるって、何をさ”
    “恥ずかしいのを、忘れるんだ”
    “恥ずかしいって、何が”
    “酒を飲むのが、恥ずかしいんだよ”
 ———大人って、とってもおかしいんだなあ、と王子様は旅を続けながら考えていました。」


  
           四 捨 五 入 

 相当大きな計算業務で、端数は四捨五入というのがあった。無作為な対象に対して個々に四捨五入をやりながら数字を丸めていく。各頁ごとにはたまたま切り上げばかりあったり、逆に切り捨てが多かったりーーー。ところがこれを一○○◯個も合計した結果はなんとちゃんと平均の数字になっているのである。
 当たり前と言ってしまえばそれまでだがーーー。
               *
 世間には、子供が男の兄弟ばかりとか女の姉妹ばかりと言う人も意外に見聞する。ところが、誰も作為でどうこうする訳ではないのに、世界中の男と女の人口は大体平均していて、特にどちらに偏していることはないという。
 自然の摂理、神の見えざる手によって、男女の数がほぼ半々だというのは何となく判らないでもない。しかし人間がその便利のために作りだした数字の合計結果が落ちつく所に落ちつくということーーー。世の中というものは、やはり自然に自然らしく振る舞うことが、結局は無理なく万人の心に叶うということか。
               :
 利休の“茶の心”に次のような言葉があるという。
 「互いの心に叶ふがよし、然れども叶いたがるは悪し」。
 当たり前じゃないか、と言う前にこの言葉をかみしめてみたい。

 

           無 用 の 用

 最近は床の間に荷物を置くお客様が増えた、と旅館の仲居さんが嘆じていた。昔はそんなことはなかったそうだ。
 この世知辛い世の中で、床の間のスペースなんか取っておれるか、というのが規格化された最近のアパートであり、それも畳の数でX畳に住んでいるつもりでいたら大間違い、 最近は団地サイズとやらで昔の畳よりずっと型が小さくなっているのだそうである。
               *
 床の間が建築学上どのような歴史と経過を辿って来たものかは知らない。しかし、世の中が世知辛くなればなっただけ、それだけに床の間に限らず、われわれの生活の中にも“床の間”のような余裕だけは残しておきたい。
               *
 まだテレビがなかった時代、一世を風靡した徳川夢声の朗読「宮本武蔵」。「何があのように人々を魅了したのかーーーその極意はただひとつ“間”のとり方だったそうである。
 無駄なようで無駄でないものーーー床の間のような“無用の用”について考えるくらいのゆとりを持ちたいと思う。

 

           浮 か ぶ 瀬

 暑い、部屋の中から照りつける外を見て、あの中に身をさらさなければならないのかと思うとつい億劫になる。人間誰しもそのような気持ちはあろう。
               *
 しかし、そこは考えよう。
 出ようか、出まいか、と思う心の間隙があるから億劫にもなれるのであって、初手から出なければならないものであり、そのようなものだと思い込んでいる者であれば、それはもう否も応もないのである。
               *
 新聞配達、牛乳配達は朝寝坊の人からみれば、早朝から雨の日も風の日も、人が寝ているうちから大変だろうーーーと同情心が湧くが、案外当の本人は傍から思うほどそんなに辛いとは思っていないのではあるまいか。中途半端な腰かけの気持ちではなく。それが自分の「仕事」だと思い込んでいる人にとってはーーー。
               *
 あゝだ、こうだと、と遅疑逡巡するから、あるいはそのような間隙があるから、暑かろう、寒かろうと考える余裕が生ずるのであって,要は自分自身を納得させられる「諦め」が持てるかどうかの問題ではなかろうか。
               :
 だから暑い暑いとボヤク人にはどこまでも暑いし、そんなことを意にも介さない人には暑さの問題は生じて来まい。

 

         十 姉 妹 

 ある日曜日の朝、軒先に吊るしていた鳥かごの十姉妹が野良ネコに狙われ籠が落ちた拍子に一羽が飛び出してしまった。
 生まれた時から籠の中で育ったひよわい鳥だから、思い切って飛ぶこともできないだろうと思っていたが、子供と二人捕まえようと網で追いかけ回しているうちに、隣の家の木からまた隣のうちへーーーそうこうしているうちに、とうとう行方を見失ってしまった。
              *
 ほんとうに生まれたときからの “かごの鳥”何が敵かも知らないまゝに自然の中に飛んで行ってしまって、まずは助かるまいと諦めていたその十姉妹が、夕方になったら自分で仲間の籠の所へ戻って来たのである。
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 捕まえようつかまえよう(捕まって元の籠の中の生活に戻ることが、お前自身の安全な生活の為になるのに何故逃げるんだ)と追いかけ回している時はどんどん遠くへ行ってしまったのに、諦めて忘れかけた頃に、気がついたら残った一羽の籠の上にちゃんと戻って来たのである。
              *
 旅人のマントを脱がせるのに風と大陽が力くらべをして、結局は脱がせようとあせった風は、かえって旅人のマントを固く閉じさせ、旅人に時間をかけて微笑みかけた大陽が、結果的にはマントを脱がせることができた。という子供の頃読んだ童話。
             :
 とんだ日曜日のハプニングから、あらためて力ばかりではどうにもならない情(こころ)というものを小鳥に教えられた。
 人間関係のあれこれやもまたかくの如きか?。

 

          正  月 

 元旦。朝風呂で昨年中のアカを流してつつがなく一家揃って健康で明るく今朝を迎えられたことを祝ってまずは一献。 
 明けましてお目出度うございます。
             *
 “正月は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし”と古人は詠った。
 「一里塚」ということ、子供の頃はただ嬉しかった正月が、最近は柄にもなくひとつの節として、過ぎ来し方を振り返ってみるような年になった。
             *

 一休さんか何かの話に「ふたへにまげてくびにかけるようなじゅず」と言うのがあった。これを「二重に曲げて、首にかけるような数珠」と読むのか「二重に曲げ、手首にかけるような数珠」と読むのか、句読点の打ち方によって数珠の大きさが違ってくる。と言う話である。    
             *
 正月は、人生における句読点だろう。
 絶え間ない時の流れにのっかって、移り変わる春秋の中でやはりあらたまって立ち止まり、過ぎ来し方を振り返って見るのも大切なことであるに違いない、昔、支那の偉い人が「温故知新」と言ったようにーーー。
               *
 “鹿を追う狩人、山をみず”の譬え、人は今自分が過ごしている「時」というものは客観的には見れないもの、毎日の生活はちょうど自転車を漕いでいるようなもので、止まると倒れるので、泣いたり笑ったりしながらペダルを踏み続けているといったところだろう。
               
 さて、去年の生活に句読点を打ちながら考えたことーーー。

         (時  代)
 人生には、その時には判らないが過ぎ去ってみると、何かの事柄(事件)をきっかけに歴然とした「時代」と言うものがあるということ。(例えば、結婚・転勤・子供の誕生などなど)
 そしてそれらの日々の生活の中では、その日その日の泣き笑いで、ミクロ的な生活を送らざるをえないが、それ等の日々の生活を纏めてひとつの「時代」とした捉え方の中でーーーいうなればマクロの中のミクロと観じた見方・考え方で生活する余裕が必要ではないかということ。
               *
 あの時、あのことで見も世もなく悩んだことが、今考えてみると何のことはない、その「時代」の時の重さに消されてしまってあとかたもない。
 きっと現在の生活の中で、あくせくと思い悩んでいることも、過ぎ去った「時代」として見た時は、どうってこともないのだろう。
               *
 悠久の時の流れの中で、もう少し視野を大きく持ってゆったりとした生活を送って行こう。
 “せくな さわぐな 天下のことは
       しばし 美人の ひざ枕“ってところか。

         (年)
 よく考えてみたら昔流に云えば吾輩ももう四十。
 子供の頃四十の父は怖かった、こわかったと言うより全く年の数なんて関係のない断絶した絶対的な存在であった。
 ところで今の自分はどうなんだろう。今自分がその年齢になって自分を見てみるとどうってこともない。同年輩の同期の連中を横に見回してみても別に大したこともない。
               * 
 小学校の頃はその時の担任の先生がこわかった。ところが中学生になった時、その小学校の先生を見て何であんな田舎おやじがこわかったのか不思議に思った。大学生になったら、その中学の先生が小さく見えたものである。
               *
 人がこわい時には、その人がカワヤの中にしゃがんでいる時の顔を想像しろと言った人がいた。
 なるほどそうかもしれん。何だかだ言ったって、たかが同じ人間所詮は動物ではないかということだろう。
              *
 “不惑”の正月にしては頼りない感懐ではあるがーーー

     来てみれば さほどでもなし 富士の山
        釈迦も 孔子も かくこそあるらん

 というところか。