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02-Jan-2013

転 勤 片 々

 三月は人事異動の月。毎年この時期になると、毎日の新聞にいろんな会社の異動記事が、相撲の番付の虫眼鏡よろしくびっしり掲載される。
 その記事を見ただけではそれだけのことだが、あの事業所と役職と名前だけの短い記事の蔭に、それこそ島倉千代子の歌ではないが ”人生いろいろ・・・”。わが意を得た人、あてがはずれて失意の人・・・”男もイロイロ・・・”。

 ”人生の禍福はあざなえる縄のようなもの、万事塞翁が馬よ”となぐさめてもらっても、何ともはずまない人、順風満帆ひとりでに頬が緩んでくる人。
 ーーー”人生いろいろ”。

 辞令日が近づくと異動する人が一張羅の服でバッチリきめて挨拶に来る。どの人も新しい任地と仕事に胸膨らませて、やや緊張気味に張り切っているのだが、その中で一番新鮮に頼もしく感じるのは、新しく「課長」になった人達。
 T会長が社長になられたとき ”今までの人生の中で一番嬉しかったのは、新潟製油所で初めて課長になった時だった”と述懐しておられたが、「課長」というのは年頃といい、社内の仕事の円熟度といい、係長や部長とは少し違った意味で、まさに人生これから・・・という自信が漲っている感じがする。

 土筆生の転勤は十一回、引越し十回。そのうち三月の定期異動は六回・あとはある日突然の辞令ーーー。
 中でも一番印象に残っているのは、やはり最初の転勤。山口県の下松製油所から北海道の室蘭製油所へ。 ”そこらあたりを熊がうろうろ歩いいるそうだ“とか ”社宅の天井から蛇が覗いたそうだ”とか脅かされた昭和も三十年代のこと。

 まだ空路が発達していなかったこともあるが、入社七年の陣笠では飛行機などという手段は思いも及ばず、勿論新幹線なんてなかった時代。
 東京で一泊して ”♫上野発の 夜行列車”・・・で青森へ、青森からは「あの船は、北海道から再び生きて帰れるかどうか・・・”生還連絡船”というんだ」とおどかされた初めての船旅。青森の岸壁を離れる時、ドラが鳴って蛍の光のメロディが妙にもの悲しく流れてーーー。

 初めて見る”北の大地”がだんだん大きく近づいてきた時の感激。函館から室蘭本線の車窓に流れる風景が内地とはがらりと変わって、遠くの山の形も、沿線に走る家並みも、サイロ・放牧された馬、何もかもが珍しく・・・。
 つい何日か前、下松で背広を着て汗まみれになって挨拶回りをした七月というのに、この北海道の涼しさ、空気の爽やかさ ”まるで全館冷房のビルみたい”と挨拶状に書いてーーー。

 転勤の話をすると ”そんなに日本中を官費旅行して、それでどこが一番良かったですか?”とよく聞かれるが、これがまた曰く言い難し、どこも夫々の良さがあって捨てがたい。
 それよりも何よりも、その所どころで得た友人知己が土筆生の宝物。下松・室蘭・本社・横浜・根岸・富山・新潟・・・。
 そのような異動の中で、縁があって仲人役でまとめたカップルが十三組、全国の日石の事業所で、それぞれの所を得て活躍しているのも頼もしい。それやこれやで、毎年正月に届く会社関係の年賀状が約五百枚、一人ひとりの顔と思い出が重なって・・・。

 こうして、長い会社生活の中で、それこそ悲喜こもごもの人生劇を見てきたが、それらの経験の中から転勤する後輩の為にひとつだけ教訓をーーー。
 「どこで、どんな仕事を与えられても、自分の好き嫌いで判断しないで、それが唯一与えられた天職と思い込んで、どんなことがあっても絶対にボヤかないこと。いずれまたどこかへ動こうなどとユメ考えないで、その土地に墓地を求める覚悟で定着すること」。
 ・・・会社から与えられた仕事を、あさはかな小さな自分の判断でフテて、結局は悪循環に陥り、自ら外れていってしまった人のどんなに多いことか。

(89・H・元・4)